更新日:2022年6月28日
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初代福森久助は、明和4年(1767)、江戸に生まれました。本所の薪炭問屋河内屋の出身と伝えています。歌舞伎狂言作家をこころざし、玉巻恵助の門人となり、昌橋丘次と名乗りました。天明5年(1785)11月、江戸桐座の「男山娘源氏」にはじめてその名を連ね、同7年11月玉巻丘次と改名、寛政2年(1790)には丘次を久次と改めています。河原崎座で勝俵蔵(初代、のち文化8年11月4世鶴屋南北を称した)と「初緑幸曽我」を合作して好評を博しました。この年福森久助と改名し、3世坂東三津五郎の引き立てでしだいに出世して、文化4年(1807)11月、江戸市村座の立作者となりました。
4世鶴屋南北よりも後輩でしたが、三津五郎という当時の人気俳優の知遇を得たことや、大きな薪炭問屋の出であったことが出世を早めたと考えられています。江戸歌舞伎の爛熟期、のちに大南北と称された巨星4世鶴屋南北につぐ江戸の立作者として、もっぱら三津五郎のために執筆して、活躍しました。
その本領は、先行作品の翻案・改修や、京坂の芝居を江戸狂言に引き直すことにあったといわれ、長唄、清元の歌詞創作にも才能を発揮しました。文政元年(1818)9月没。51歳でした。東小松川の源法寺に葬られています。
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