更新日:2022年6月28日
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紙本着色で三幅対の地獄図です。文政3年(1830、天保元年)に光福寺の什物となりました。江戸時代後期の作と考えられます。端裏に「十王絵」と墨書されていますが、十王のひとりである閻魔王の「閻魔王庁図」に、日本天台の学僧源信(942~1017)の『往生要集』にのっとったいわゆる「六道絵」のうち地獄道の「等活地獄図」と「阿鼻地獄図」の二幅を加えた三幅構成になっています。図柄には中国宋元の影響がみられます。
各幅の本紙は、縦1550センチメートル、横800センチメートル。端裏に「文政十三庚寅年」とあり、施主は「江戸一ヶ谷八幡町」に住んだ「三河屋藤右衛門内美佐」と記されています。三河屋藤右衛門は西小松川村の加納甚内の親類と書かれています。現住職によれば、この「地獄図」は当時12代目の住職である辯栄在職中に施主から寄進を受けたか、施主の寄進によって辯栄が作らせたものを推定されます。
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