更新日:2022年6月28日
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筆子塚とは、江戸時代に庶民の教育機関であった寺子屋や家塾で、読書算術や実務教育を教わった教え子が、師匠が亡くなった際にその遺徳を偲び、自分たちで費用を出し合って建てた墓や供養塔のことです。
真福寺墓地の歴代住職墓域にあります。台石に「筆子中」と刻まれ、地元だけでなく小岩地区の筆子が助力に参加したことを示す銘文のある無縫塔です。寺子屋の開業地を確定できませんが、この寺の住職が寺子屋で教授していたことを示す墓石です。
台石付石造無縫塔で、総高124センチメートル。法印は江戸時代に僧侶に授与された位階のひとつで、宗派それぞれに昇進の規定がありました。法印中阿は真福寺の第10世住職で、天保9年(1838)4月27日に亡くなっています。
真福寺は真言宗豊山派。明治初期に火災にあい本堂を焼失し、記録を失いました。中阿がどこで教授したかは明らかではありませんが、同寺を教場としたと考えるのが妥当でしょう。筆子小岩方面の者がいたことは、この寺が小岩の善養寺(真言宗豊山派、東小岩2丁目)の隠居寺であったことに関係があると考えられます。師匠が出張したのか、筆子が通ってきたのかは明らかではありません。
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