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更新日:2022年6月28日

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歌舞伎役者墓碑群

大雲寺には、江戸時代から明治にかけての歌舞伎役者の墓と碑がまとまってあります。
浄土宗大雲寺は、徳川幕府2代将軍秀忠から浅草森田町(現台東区蔵前4丁目)に寺地を拝領して創建されました。元和6年(1620)のことでした。長行山専称院と号し、開山は天蓮社焚誉上人といいます。寛文8年(1668)に焼失したため、本所押上(現業平公園の東隣)へ移転しています。その後、大正12年(1923)の震災で焼失し、大正14年に現在地(西瑞江)に移転を始め、昭和6年(1931)に完了しました。
この墓碑群は、寺の移転にともなって移したもので、江戸時代以来の墓碑を伝えています。被葬者の構成からみれば、坂東彦三郎の出自である福地家の縁者が多く、坂東彦三郎家ときわめて近い縁戚関係にある市村羽左衛門家や尾上菊五郎家の名跡を継いだ方々の名が刻まれています。現在は祭祀が途絶えている墓も少なくありませんが、江戸三座と称された中村座・市村座・森田座のうちの、中村座・市村座に関係する役者の墓が集まっている貴重な墓碑群です(番号・名称は史跡指定の際に教育委員会で便宜上付したものです)。

1)市村羽左衛門累代墓

総高191.5センチメートル。初代羽左衛門より16代目までの累代合葬墓です。正面に16代の法名を刻みますが、夫人や子の法名も刻まれています。墓石を建立した4代目坂東彦三郎は11代羽左衛門(福地氏)の弟で、のちの初代坂東亀蔵を名乗ります。

2)坂東彦三郎累代墓

総高171.5センチメートル。3代彦三郎より6代目までの合葬墓です。坂東彦三郎は、屋号音羽屋。初代彦三郎(1693~1751)は、江戸市村座の俳優です。3代目彦三郎(1754~1828)は8代目市村座羽左衛門の三男。4代目彦三郎(1800~73)は江戸市村座の帳元福地茂兵衛の子で、のち初代坂東亀蔵。5代目彦三郎(1832~77)は、4代目彦三郎の養子。6代目彦三郎(1886~1938)は、6代目尾上菊五郎の実弟で大正4年に6代目彦三郎を襲名しました。7代目彦三郎(1916~2001)は6代目の長子で、のちに17代目市村羽左衛門を襲名しています。

3)三代坂東彦三郎家墓

総高180センチメートル。3代目彦三郎(1754~1828)は8代目市村羽左衛門(福地氏)の三男で、9代目羽左衛門の弟です。初代尾上菊五郎の門人となりました。俳名を薪水、雅号を半草庵といいました。この墓には母(8代目羽左衛門後妻)と、妻(先妻は初代尾上菊五郎の娘・後妻)が合葬されています。墓石上部の「徳本」は、3代目彦三郎が師事した木食上人としても知られた小石川伝通院の僧徳本上人(1758~1818)です。

4)初代尾上菊五郎供養碑

総高250センチメートル。天保4年2月、初代尾上菊五郎の50回忌追善供養に3代目菊五郎が建立しました。碑の石は菊五郎の好きだった庭石と伝えています。正面右端に刻まれた「解脱院染誉梅幸無心居士」が初代菊五郎の戒名です。左端の「窪世祥」はこの碑を刻んだ大窪世祥という幕末の石工です。「容齋」は日本画家菊池容齋(1788~1878)と思われます。

5)寺嶋家門弟一同建立碑

総高91センチメートル。5代目尾上菊五郎の門人一同が、3代目菊五郎50回忌にあたる明治32年3月に建立しました。3代目尾上菊五郎は初代尾上松助(のち松緑)の養子で、2代目尾上松助、3代目尾上梅幸、そして3代目菊五郎を襲名しました。江戸と上方を行き来し、引退後は江戸で餅屋を開業しましたが、嘉永元年(1848)初代大川橋蔵を名乗って上方で興行、翌嘉永2年(1849)に江戸へもどる途中、掛川宿(静岡県)で亡くなりました。5代目菊五郎は12代目市村羽左衛門(妻は3代目菊五郎の娘)の次男です。

6)寺嶋家門弟代々墓

総高159.5センチメートル。寺嶋家ゆかりの分骨墓と伝わります。

7)瀬川累代墓

総高181センチメートル。初代瀬川菊之丞より6代菊之丞の合葬墓です。この墓を修繕した「八代目岩井半四郎亡妻もん」は、13代に中村勘三郎の妹でした。4代目菊之丞の次女が7代目岩井半四郎に嫁して8代目半四郎の母となったことから、もんにとって4代目菊之丞は義理の祖父にあたります。
この墓には江戸時代の歌舞枝狂言作者初代瀬川如皐が合葬されています。如皐は、元文4年(1739)振付師の達人市山七十郎(舞踊市山流の祖)の長男として大坂に生れ、2代目菊之丞の門に入り、市村座で二枚目女形として人気を博しました。天明3年(1783) 中村座の「道成寺」を最後に狂言作者に転じ、俳名の如皐を作者名としました。実弟菊之丞や中村仲蔵のために優れた作品を書きました。寛政6年(1794)1月23日、56歳で亡くなりました。法名「春皐院道誉静心居士」。

8)松本家墓

総高141センチメートル。4代目松本幸四郎より6代目幸四郎の合葬墓です。4代目幸四郎は初代瀬川菊之丞の門人で、宝暦7年(1757)に4代目市川団十郎の門下となり、安永元年(1772)に4代目松本幸四郎を襲名しています。側面に4代目幸四郎(錦江)とその妻(機友)の辞世の句が刻まれています。*錦江は5代目幸四郎の俳名といいます。

9)中村勘三郎累代墓

総高147センチメートル。初代中村勘三郎より13代目勘三郎の合葬墓です。初代勘三郎は駿河沼津城主中村彦右衛門(3万石)の弟中村右近の子で慶長3年(1598)生まれ、大蔵流の狂言を学び、舞踊「猿若」を創作しました。寛永元年(1624)江戸日本橋で猿若座(のちの中村座)の櫓をあげました。明暦4年(1658)没の教誉道順は初代勘三郎、延宝3年(1675)没の三誉栄心は初代の次男で2代目勘三郎です。

10)3代中村勘三郎墓

総高156センチメートル。3代目中村勘三郎は初代勘三郎の三男で、兄の没後に3代目を襲名しました。

11)福地家墓

総高160.5センチメートル。4代目坂東彦三郎が建立した墓石で、実家である福地家の初代茂兵衛から代々の合葬墓です。

12)坂東彦三郎墓(初代・2代)

総高160センチメートル。日蓮宗浄心寺墓所(江東区)から、平成18年に大雲寺に改葬されました。初代・2代坂東彦三郎の墓です。

大雲寺墓所には、このほかに秋田家墓(5代尾上菊五郎の後妻秋田ぎんとその実母の墓)がありますが、歌舞伎役者の墓ではないため、史跡には数えておりません。

  • 江戸川区指定史跡
  • 瑞江4丁目11番5号 大雲寺
  • 平成18年3月28日 告示

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