更新日:2022年6月28日
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隠元は中国明の僧侶で、黄檗宗の開祖です。承応3年(1654)渡来して長崎の興福寺に住し、翌年崇福寺に住しました。万治元年(1658)参府登城して徳川家綱に謁し、日本永住を決意。幕府より山城宇治に寺地を賜り、万福寺を開創しました。延宝元年(1673)に没しています。
隠元の書は、弟子木庵・即非の書とともに「隠木即」(黄檗三筆)とよばれて煎茶の茶掛けに珍重されました。江戸時代(17世紀)の製作。隠元隆き(1592~1673)自讃、喜多元規(17世紀後半の黄檗派の画家、生没年不詳)の筆による頂相画です。晩年の宗祖の相貌を克明に写した作例として貴重です。軸装。本紙、縦112.3センチメートル、横42センチメートル。
明暦3年(1657)2月15日の年紀をもつ、木庵性とう(1611~1684)自讃、喜多道矩(17世紀後半の黄檗派の画家、?~1663)の筆による頂相画です。
木庵性とうは中国明の僧侶で隠元の印可を受けたのち、隠元の招きで明暦元年(1655)長崎に渡来、福済寺に住しました。のち隠元の万福寺開創に助力、隠元没後住持を継いで万福寺2代目となります。国内20余か寺の開山となり、延宝8年(1680)退隠、貞享元年(1684)没。曲ろくに坐した木庵が有髪に描かれています。軸装。本紙、縦112.3センチメートル、横42.4センチメートル。
江戸時代(17世紀)製作。寿昌院開山天海道龍の頂相画です。天海は黄檗宗4世独湛性瑩(明僧、1628-1706、瑞聖寺開山―港区白金)の嗣法とされ、『江戸川区史』では「天海道竜和尚」と記されています。貞享元年(1684)に池田氏室寿昌禅尼によって建立された寿昌庵の開山となっています。元禄12年(1699)天海老和尚の自讃を代筆したことが讃文により知られ、当区における黄檗宗の歴史を伝える重要な資料です。軸装。本紙、縦97センチメートル、横36.6センチメートル。
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