更新日:2024年6月14日
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2024年(令和6年)6月13日 疎開80年鶴岡市長と疎開経験者が児童と交流
“学童疎開80年、交流の歴史を次世代へ”
戦時中の学童疎開から今年で80年。疎開をきっかけに友好都市盟約を締結する鶴岡市と江戸川区の交流の歴史を次世代に引き継いでいくため、皆川治(みなかわおさむ)鶴岡市長や疎開経験者が今日(13日)、鶴岡市立朝暘第三小学校と姉妹校盟約を結ぶ鹿本小学校(松本2/校長:奥村孝史/全校児童186名)を訪れ、児童たちと交流を図りました。
第二次世界大戦中、東京への空襲が激しさを増した1944年、区内の国民学校24校約5,100名の児童は、山形県に集団疎開することになりました。このうち、約4,300人が鶴岡市内の寺や旅館、民家などに宿泊しながら過ごしました。学童疎開を縁に交流をはじめた江戸川区と鶴岡市は、疎開経験者を中心に市民同士で親交を深め、1981年5月に両都市は友好都市盟約を締結しました。また、鹿本小学校は、戦時中に児童が鶴岡市に疎開したことをきっかけに、学校を相互に訪問しあうようになり、1982年1月に鶴岡市立朝暘第三小学校と姉妹校盟約を締結。以降、宿泊学習で児童が鶴岡市を訪れ、同市の豊かな自然環境の中、地域の伝統文化や産業に触れたり、共同で体験活動を行ったりするなどして交流を続けてきました。
今日(13日)、鹿本小学校では、学童疎開が行われてから今年で80年を迎える節目の事業として交流会が開かれ、全校児童が参加しました。同校には皆川鶴岡市長、4年生の時に湯野浜温泉に疎開した経験のある荒木ひろさん、鶴岡ふるさと観光大使の染野眞理子さんが来校し、3・4年生による山形伝統の花笠音頭で歓迎を受けました。皆川市長は、「両校の長い交流が、学童疎開の記憶を風化させずにいた。その重要な役割を、今は皆さんが担っておられることに感動しました。若い世代の皆さんにこれからもつないで行って欲しいです」とあいさつしました。続いて、各学年の代表児童6名が鶴岡市長と荒木さんに質問しました。児童の「一番印象に残っていることは」という質問に対し、荒木さんは「疎開先に祖父が面会に来て、3月の空襲で父が亡くなったことを知らされた時が一番悲しかった」と当時を振り返り、声を詰まらせました。交流会のあと、荒木さんは「(今日の話を聞いて)一人でもいいので、昔の時代の人は大変だったなと思ってくれれば幸せです」と話しました。また、参加した5年生の児童は、「疎開した経験を聞いて、家族が居ないのに頑張って生きてきたことがすごいと思った。将来、子どもを持ったら、子どもにも伝えていきたい」と話しました。
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