更新日:2026年8月10日
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21歳で迎えた終戦と、真っ暗な防空壕の記憶(本田 美津子)
【証言者】
本田 美津子氏(当時東京都江東区大島在住)
私は大正13年(1924年)の2月生まれ。昭和20年の終戦の時は、ちょうど21歳ぐらいで、当時は東京の大島、下町の方に住んでいました。
女学校を出て、石川島造船所へ
最初の戦争の記憶は、12歳の時です。高等女学校の入学の模擬試験で、先生と青山の試験会場に行ったとき、後でわかったのですがちょうど2・26事件の日で、都心に戒厳令がしかれたようで、まちが騒然としていた記憶があります。女学校時代はまだ、戦火が激しくなかったので、戦争についてあまり記憶にないです。女学校を卒業してすぐ、佃島にある「石川島播磨重工(石川島造船所)」に勤めました。事務のお仕事でね、役員さんの秘書みたいな仕事。上司は大学を出たばかりの若い人たちばかりで、お友達と一緒に楽しく働いていました。川の向こうがすぐ銀座で、佃島から船に乗って、遊びに連れて行ってもらったりもしました。あの頃はまだ、3年ぐらいはゆったりしていたのかしら。いつごろからか覚えていませんが、慰問袋をつくって送ったりしました。すれ違いでお会いできませんでしたが、送った慰問袋の兵隊さんが訪ねてきてくれたこともありました。戦死されていないか気がかりでした。戦争が激しくなったりして、軍需関係の仕事だったか埼玉の桶川の方まで働きに行ったりもしました。電車が止まっちゃった時は、江戸川の鉄橋の上、線路を跨いで友達と歩いて渡ったこともあります。怖かったけれども当時はもう必死だったから。
真っ暗な防空壕の中で
うちは敷地に防空壕があったんです。祖父や父が造ったのでしょう。これがないと生き残れないから。空襲警報が鳴るたびに、バッって防空壕の中に逃げ込んでいましたね。夜間よりも昼間の空襲が多かったような記憶があります。空襲警報が鳴ると、「早く入れ!」と父が叫ぶんです。怖くて必死に防空壕の中に逃げ込んでいたことは、今でもはっきりと覚えています。防空壕の中は電気がないので、昼間でも真っ暗です。あの暗闇の中でじっと身を潜めていたことは忘れられません。
兄弟の疎開
おじいちゃんは家にいて、父も軍隊に行ったような記憶はかすかにあるくらいです。うちは、兄弟が8人いたんですけど、私は長女だったのでずっと家に残っていました。でも、戦争が激しくなってくると、兄弟は疎開に行きました。私のすぐ下の弟は、高校を卒業して、ちょうど少年航空兵の募集があった年代だったから、家族みんなで「行くな」って止めたんだけど、本人が「行く」ってきかなくてね……。でも、必死で引き留めました。あの時代に兄弟全員が無事だったというのは、本当にすごいことだったと思います。
農家じゃないから、食べ物には苦労しました
江戸川の方は農家が多かったみたいだけど、江東区の方は、農家が少ないから食べ物には苦労しました。父は、本当は仕事があまり好きじゃない人だったみたいだけど、戦中戦後は食べるものがないから、庭の松の木をどかして畑を作ったりしていました。でもそれだけじゃ足りないから、父と私が電車に乗って、遠くまで野菜を買い出しに行くんです。農家の人に「売ってくれ」って頼んでいました。
東京大空襲で家は丸焼けに
東京大空襲の時、私は家にいました。大島の方は火がひどくてね、家は丸々焼けてしましました。本当に「丸焼き」ですよ。家中何もなくなってしまいました。私の家は小名木川沿いにあったのですが、空襲で辺り一帯焼け野原になりました。目の前の小名木川には、火から逃れようと川に飛び込んだ人がたくさんいて、亡くなった方が浮いていました。今じゃ考えられないような悲惨な光景ですが、それが当たり前だったんです。恐ろしいですよ。戦後のごたごたした時期のことは、あまりにも必死でよく覚えていないことも多いけれどとにかくそうやって必死に生き繋いでいきました。
100歳を過ぎて思うこと
今はこうして江戸川区で、デイサービスに行ったり、テレビを見たりして、穏やかに過ごせています。でもね、テレビで戦争のことなんかをやってるのを見ると、やっぱり「戦争は嫌だな」って心から思います。娘時代の頃の記憶は戦争一色だし、あの空襲の怖さや、食べ物がなくて苦労したこと、100歳を過ぎても、そういう嫌な記憶はちゃんと残っているものなんですね。それ以降は、ごく普通に主婦の人生です。今は今で幸せ。こうしてお話しを聞いてもらえて、本当に良かったです。
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