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更新日:2026年8月1日

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疎開の時の生活(和田 ふみお)

「縁故疎開」

私は昭和八年生まれ、東京の墨田区で家は木工業で、父母と二才年上の兄と七か月になる妹の四人暮らしだった。しかし、妹が母に抱かれ乳を飲んでいるときに、母は急死した。父は大変困り、妹を子供のいない、やさしい夫婦に里子としてもらっていただいた。妹は大変幸せに育っていた。

その後、日ごと戦争の色が濃くなり、食糧難が続いた。配給もおぼつかなくなり、当時小学校も閉鎖となり、疎開せよとの命令が下った。集団疎開か、縁故疎開かのどちらかになった。私の父は、五年生の私を知人の所へ疎開することに決め、昭和一九年八月、私を連れ、上野駅から汽車で、岐阜県の飛騨に向かった。東京しか知らない五年生の私は、田舎へ行けると、もう嬉しくて心が浮き浮きした。岐阜駅に着いた時は、早朝で明るくなっていた。私の顔もすすで黒くなっていたと思う。大きな倉の二つもある農家を訪ねては、「私を預かってほしい」と言っていた。しかし何軒も断られた。子供の私としてもなぜか悲しい気持ちになった。その時に初めて父は飛騨の生まれで、姉や妹の嫁ぎ先の家だと言うことを知った。そうしているに夜になり、飛騨下呂に着いた。下呂駅から五キロ程にある知人の家だった。いろりの鉄ナベには、じゃが芋が煮えていた。六十才位のおじさんとおばさん、三人の子供がいた。父はなにやら、おじさんと話をしていたが、「いいよ、置いていけ」と言う声がした。すると父はその足で東京へ帰ってしまった。仕事に追われていたと思う。

その夜のこと、私は空き小屋のわら布団で寝ることになった。夜が明けた、朝ご飯は、麦と大根の葉のご飯だった。「ふみ、行くよ」と言われ、おじさんと二人で、山の中ほどにある畑へ行った。草取りやら、草刈りやら、おじさんから教えられた。秋になり稲刈りをした。稲刈りで小指にケガをした。でもボロ切れで巻くだけだった。今まで五年生の私が描いた、田舎生活とは全く違うものだった。夜になると、わら草履作りも習った。おじさんは、「何しろ一度しか教えないよ、後は自分で考えな」と言った。履物が無い、作るしかない、一生懸命で作った。すごく上手になった。今でも作れる。風邪を引いても、指や足を怪我しても、マムシ焼酎をつけるだけだった。一人ぼっちで、誰にも頼れない、強くならない筈がないと思った。

学校へもほとんど行ってなかったのに、東京の方といえば、戦争が激しくなり、言葉にならぬ程の苦しい生活だったと思う。私は「こんなことなら集団疎開をすればよかった」と毎晩布団の中で泣いていた。そして三月の空襲があった。B29の爆撃で、東京の家は全焼した。里子の妹の家族も防空壕にいて吹き飛ばされ、行方不明となった。我が家も、もちろん、近所もみんな焼け野原になった。焼死している人の間を、くぐり抜け上野の山へ親子で逃げ、「命だけは助かった」と父は一言。

その後は、私の居る下呂へやってきた。私は嬉しかった。親子四人で、空き牛小屋を借り住んだ。電気もない、水道もない、いろりだけだった、すぐそばの谷間へ行き、洗たくや、茶わんなどを洗った。夏はいいが、冬は谷のまわりが氷っていた、つららを割って洗ったりした、すぐ近くに庄屋様の家があり、「山へ行って、山にあるものは何でも自由に取って来てもいいよ」と言って下さった。

私は中学一年生になって学校へも行けるようになった。コーラス部に入部した、東京からの疎開者は私一人だった。貧乏だが楽しかった、人生色々時代にほんろうされながらも今日まで生きて来られて幸せだと思う。五年間の飛騨での暮らしを語ることは、私の文才ではできない。昭和二十四年十月に、東京へ戻り、内職をして月謝を工面し、江戸川女子高校へ入学させてもらい、卒業した。木内女校長先生には大変お世話になり、担任の長竹先生からは、「清少納言」と呼ばれ、一生の思い出となって現在に至っている。

「靴職人のお兄ちゃん」

私は東京の下町生まれ、四才の時に、母は急死、七か月の妹は、里子として貰われた。家の前は靴店で、そこの靴職人のお兄ちゃんのことが大好きだった。年齢は二十五才ぐらいだった。当時は、注文靴がほとんどで、毎日忙しく働いていた。四才で母が亡くなっても少しも淋しくなかった。お兄ちゃんのそばにいて灰田勝彦の歌を聴くのが楽しかった。仕事が終わると時々夜店へ、肩車をして連れて行ってくれ、金魚すくいやみかん飴を買ってくれた。私も小学校へ行くようになった。でも授業が終わるとすぐ靴屋のお兄ちゃんのそばへ行った。いよいよ戦争も激しくなり、食料も配給になり、外食券食堂もできた。お兄ちゃんにも召集令状が届いた。お兄ちゃんには、婚約していた女の人がいて、出征する前日の一週間をアパートで一緒に暮らしたと靴屋の奥さんから聞いた。当時小学校五年生になった。十九年八月に飛騨へ疎開した。そして二十年三月には、東京大空襲で全焼した。裸一貫で両親と兄が疎開して来た。しかし飛騨で、一家は暮らすことができず、東京へ戻ってきた。住んでいた場所は、まったくわからなくなっていた。もちろん靴店も無かった。そればかりか靴店のお兄ちゃんは、フィリピンで戦死、遺骨も不明だと人づてに聞いた。その上里子の妹千里も両親も、防空壕に入っていて吹き飛ばされ不明とのこと、何もかも戦争に犠牲となってしまった。

「現在の若い人に読んでほしい」

昭和一九年八月、小学五年生だった私は、縁故疎開をした。戦争が激しくなり、学校は閉鎖された。集団疎開をした子もいた。飛騨の土地の知人の家に疎開、東京の墨田区に居た両親と祖父、兄、小さな妹は残った。増々戦争が激しくなった五年生の私は、全く知らない知人の家で毎晩、床に入って泣いていた。両親の所に帰りたい、一人だけ預けた親を恨んだ。そして三月十五日のB29の爆撃があり家は全焼、祖父と妹は、防空壕ごと吹き飛ばされ死んだ。少しして両親と兄が飛騨へ来て一緒に暮らすことができた。九十三歳になり、先日図書館で、早乙女勝元さんの、「東京大空襲」という図設の本を借りてきて読んだ。私の思っていたような、そんな甘いものではなかった。東京の墨田区に、住んでいた人のほとんどが逃げ惑い焼死した無惨な姿を見て涙が止まらなかった。自分が疎開で苦しんでいる、そんな生温かいものではなかった。恥ずかしかった、しかしあの火中を逃げ伸びた、父母兄は、何一つ言葉に出して言う事は無かった。現在も戦火に苦しんでいる国がある、現在の日本は平和で、豊かな生活を送っている。平和だからこそである。若者に、是非、早乙女勝元さんの図説の本を読んでほしいと思う。

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