更新日:2026年8月1日
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戦争は怖い(田村 寿恵子)
私は間もなく九十五歳になるので、記憶はだんだん薄れてゆき、定かでないことを思い出しながら、その時の事を考えて書きました。
当時私は一三歳、浅草・鳥越の下町で生まれ、勉強より近所の子供たちと遊んだ事はよく覚えている。隣の子が兵隊として出征していく。それを私は見送るため、はたきの棒を持ち「勝ってくるぞと勇ましく」と歌いながら四・五人の友達と「お父さん行ってらっしゃい」と送り出す、それが遊びであった(兵隊ごっこ)。
昭和二十年三月九日、姉の勤務先の関係で葛飾区に移転することになり、姉は会社を一日休み、必要な衣類を入れて縄掛けをしていた。しばらくすると、隣組の組長さんが「斎藤さん、外にでないと大変ですよ」と云われ、怖々出てみると真っ赤な空に驚いて、「これは逃げないと」と手許にあった物を持ち、近社の境内に行くと、そこはもう一ぱいで飛んでくる火の粉、焼けただれたトタン板でどこにも行けなかった。当時父は、私が十歳の時に亡くなり、兄は出征中で、姉と兄(学生)母、私の四人でいた。又当時浅草橋駅の下や、小学校周辺は強制疎開で民家が全て壊され、空き地になっていたので、そこで夜が明けるのを待っていた。やっと明るくなったので、我が家があったほうに行ってみると、姉が荷造りした物すべて焼け野原になっていた。その後、焼け残った小学校に避難してカンパンをもらい、破裂した水道管から噴き出している水を飲んだが、空腹感は全くなかった。翌日、船橋海神に避難していた叔父が沢山の人の中から私達を探し出してくれ、まず私と母は叔父の家に行く事にしたが、電車が新小岩から千葉までしか行かないので、浅草橋から新小岩まで、重いリュックを背負い歩いた。亀戸では死人の山をたくさん見たが、何とも思わず、ただひたすらに歩くのみであった。
以後は飢えとの戦いであった
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