私は直接の戦争を知らない世代と言われた、ベビーブーム時代の子どもたちと、周りから呼ばれた頃を覚えている。小さい頃住んでいたのは、アパートの6畳一間に両親と幼い姉弟と6人で住んでいた。そこでは水道も洗面所も玄関もすべて共同だった。なぜこうした狭い所で共同生活をしながら、1日3回の食事も思うように取れず住んでいるのだろうか?という大きな疑問を持っていたが、少しずつ成長していく中で分かってきた。原因はすべて戦争だったのだ。
母は戦時中、向島区に住みB29の東京大空襲の爆弾をもろに受け家は全焼、周りは焼け野原、命だけ助かったと何回か言っていたのを聞いた。母は二人の幼子を東京が危ないと言われた時、先に静岡の実家に預けていたおかげで幼子は助かったのだ。母はB29の爆撃で焼け野原状態になった焼け跡に、後日一人で恐る恐る見に行った時、毎日使っていた足踏みミシンの残骸が鉄の塊としてポツンと一つ家の焼け跡に落ちていたと寂しそうに言っていたのが忘れられない。それは寂しい一人暮らしの中で、頼まれた縫製の仕事に使っていた生活の糧の唯一のミシンだったのだ。
その東京大空襲の前には、夫が29歳で満州で戦死してしまい母は25歳で未亡人となり、その時自宅へ届けられた「御遺骨です」と手渡された箱を開けると石ころ一つしか入っておらず、大きなショックを受けたと悲しそうに私に語っていた。どんなに切なく泣いても泣ききれなかったことだろう。そして昭和20年8月15日、とうとう多くの犠牲者を出して敗戦日となったのだ。
その後母は、縁あって元衛生兵だったという人と出会い再婚、そして私達姉弟が生まれたのだ。しかし静岡に預けられていた兄二人のことを聞いたのは後日のことで、写真も何もなく、どんな人なのだろうと想像もできなかった。電話もない頃でもあったが、母の先夫の息子である長兄が、ある日住所を頼りに一人で母に会いにアパートを訪ねてきたことがあった。一間しかないその部屋で義兄にあたる人だと初めて顔を見て知った。そして子ども心に、とても感情が高ぶったことを覚えている。会ったことのなかった義兄との初対面は短い時間だったが、その時の光景を今もはっきりと覚えている。
その義兄がやがて高齢になり亡くなる少し前に、自分の妻に万が一の時は棺に入れて欲しいと頼んでいた包みを出棺間際にその妻は棺に入れた。私は思わず「何を入れたの?」と小声でそっと聞くと、「戦地から父親が送ってきた手紙」とのこと。妻や幼い子ども達が気がかりでいろいろ心配していた様子を書いた手紙で、その束を妻が夫から頼まれていたのだった。母は自分が再婚する前にその手紙の束をどうやら息子に渡していたようだった。義兄の弟も静岡の母の実家の跡取りとして養子となり、一生を終えた。今は身内の戦争体験者が一人、又一人と亡くなり、ほとんどの人達を見送った感がするが、私は日々仏壇の前で毎日手を合わせながら、故人の冥福と共に平和を祈っている。今まで小さい頃から家族の戦争経験者達の話を聞いてきたが、私の心の中で長い戦争に関わる身内の記憶に一区切りついた感もする。
そして戦後80年たち、人々の心の中からも少しずつ記憶も薄れていくが、多くの戦争の犠牲者達の上に、今私達は何不自由なく平和で幸せな日々を送れていることに深く感謝したい。戦争という言葉を聞くと、私は直接戦争を体験したわけではないが、戦後の厳しいどん底の生活体験が時折甦り、記憶からは完全に消えていないことが分かる。今の世代の人達に二度とこんな悲惨な体験をさせたくない思いでいっぱいだ。戦争は絶対悪だ、決して起こしてはならないと強く思った。
そして、今も世界ではなくならない紛争や戦争、何の罪もない子どもや一般の人々が逃げ惑い殺されていることに胸が締め付けられる思いになる。一日も早く紛争も戦争も終わらせて欲しい。そして世界でただ一度原爆を落とされた国、日本。この先、広島や長崎の原爆で悪夢のような恐ろしい核を使っての戦争の終止符とならないようにと願っている。「戦争程悲惨なものはない、平和程尊いものはない」の言葉どおりである。