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更新日:2026年8月1日

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私の父の体験記録

戦時中の証言を募集しているとのことで私の父が体験した記録を送らせていただきます。

平成16年1月に87歳で逝去した私の父は、一冊のノートを残して逝きました。そこには太平洋戦争に従軍した時の思い出が細かく書き綴られていて、70歳過ぎに書かれたと思われる少しよろけた字からは「やはり、どうしても書き残したい」という意思が感じられ、この機会に多くの方に読んでいただき、戦争を体験した者の気持ちをお伝えしたいと思います。

戦時中独特の言い回しや軍隊用語、返還しても出てこない中国の地名などとまどうことも多く、また原文を4分の1の量に縮尺した為、時間の経過や文の流れが分かりにくい処もあるかと思いますが、お許しください。

大正5年生まれだった父が従軍したのは29歳~30歳の時で、結婚2年目、妻と1歳にならない長女は妻の実家に疎開していました。当時小石川区の小学校の講師として勤務、召集された時は疎開児童を引率して東北の松島にいたそうです。

派遣されたのは北支と呼ばれた今の中国東北部、8月15日の終戦を迎えたあとでもソ連軍に追われ、中国共産党率いる八路軍の攻撃を受け大変な思いをしたようです。生来、気が弱く神経質、背は高いが痩せていてひ弱な父にとってこの軍隊がいかに過酷であったかは想像に余りあり、父の心情を思うと涙を禁じえない箇所もいくつもありましたが、父の思いを多くの人に伝えることができればそれが本人の一番の望みではなかったかと存じます。

 

[私の父の体験記録]

たった一片の令状によって先の太平洋戦争に一兵卒として赴任せざるを得なかったことはわたしにとって忘れ得ない悪夢の記憶である。毎日生命の危機にさらされる生活がどんなものか、体験した者でなくては分かるはずもなく、決して忘れられない記憶がいまでも頭の底に固くこびりついて離れない。生まれて初めて辛酸をなめ、生死の境を何度となく彷徨わされた。それでも幸いに無事帰還できたから良かったものの、一緒に召集された何人かの友人は見知らぬ他国の土となってしまっている。

その知らせの電報を受け取ったのは昭和20年3月6日、29才の時であった。3月24日品川駅から列車にのせられ多摩川を越す鉄橋を渡るとき、いつかここへ魚釣りにきたことなどを思い出し、これが東京の見納めかと感慨無量の思いだった。下関で一泊、翌日朝鮮海峡を無事に渡り切り、釜山から貨物列車に乗せられる。赴任先は北支中国北東部とのことだが、どんな運命が待ち受けているのか心細い限りであった。かなりの時間が経ったが今どの辺りを走っているのかさっぱりわからない。それでも、長い鉄橋を渡る音で、いよいよ満州に入ったなということが感ぜられた。到着後行軍が始まったが、正式の装備をしての行軍は初めてであり、だれの足もマメが出来て血が吹いていた。どのくらい歩いたか突如はるか彼方に一大城壁が現れた。それが我々の行く目的地の撫順城だという。やっとの思いでこの城門に達した時には皆くたくたに疲れていた。我々はここで3ヶ月の教育を受けるはずだったが、非常時であるから一刻も早く教育を修了し一人前の兵隊として役立たせなければならないというので、この期間が半分に短縮された。訓練も倍速され厳しくなってきて、ただ眠ることと食べることだけが楽しみな毎日であった。

8月15日正午、重大放送があるというので我々全員広場に集合させられた。ラジオから漏れる音声は雑音がひどく不明であったが、放送終了後上官の一人がたって「大命がくだった、お前達の生命は私がもらった、我が隊は明日前線に出動する」と叫んだ。兵隊の顔が一瞬緊張した、班長の顔色もサッと変わった。翌日、我々は無蓋車にのせられ、着いたところは満州の国境、古北口という土地で噂に聞いていた万里の長城が目の前にそびえていた。我々はここへ侵入して来るソ連軍を阻止するための人盾として送られて来たのであった。「お前たちは北京を守るための犠牲になるのだ」とはっきり上官から言われた時は流石にショックで、ああこれが最後かと思った。しかし、この地で何事もなく無為の一週間近くたった頃、突然ある日の昼頃一発の銃声が付近を流れといる小川の川床に沿って走る、後ろからすぐ敵が追いかけてくるような気がして夢中で駆け、ようやくの思いで崖の上の貨物列車までたどりついた。他の同年兵は列車の後を歩いてきた者が多く、また取り残されソ連兵の捕虜となってその後何年か苦労した者もいると聞いている。やがて列車はガタゴト動きだしたが、まったくまだるっこいのろさで気が気でない。今にも後ろからソ連兵に追いつかれるのではとひやひやしながらそれでもようやく次の駅まで来て停車してしまった。一夜明けて未だ興奮のおさまらない我々のところに敵が来た。あわてて城内に逃げ込んだが、この時どういうことかはっきりとソ連兵のひげ面を見た記憶がある。城内に入ってから緊張が一段と増した。場外はすべてソ連兵に囲まれてしまったという。「我々はここで最後の戦いをすることになる、全員下着を新しく替えよ」と班長に言われた。ああ駄目かと思ったが、この日は何事も起こらず、翌朝、赤い弾筒が上がったら戦闘開始というので皆息をつめて空を見上げている。まわりはすっかり取り囲まれているのでここで始まったらまず全滅はまぬがれまい。ああいよいよ終わりかなあ。こんな人知れない北支の土地が死に場所になるとは誰が予想したことか。我々は銃に五発の弾をこめたものをしっかりと握りながら感無量の思いだった。この時どうして戦闘にならなかったのか、今でもよく分からない。五日間近くも包囲された状態が続き、ソ連兵が囲みを解いて撤退。危機を脱したことを知った時は長い間の緊張が解けてホッとしたものである。すでに終戦が分かっているこの時期にここで戦闘を開く理由もなかったし、軍にその意欲がなかったようである。ソ連軍も万里の長城を越えた北京に近い場所であり、中国に対する配慮もあったのかと思われる。何しろここで戦わなかったのはお互いの幸運だった訳で、もし始まっていたら我々は全滅の悲運に遭遇していただろうし、相手もまた相当の被害を受けたことと思われる。

ソ連軍が去ってから今度は周りの八路軍の動きが活発となってきて、しばしば鉄道が破壊されたり、歩哨が仕掛けられた地雷で負傷するというような事件が起きた。そして、一か月後には北京との鉄道は完全に不通となってしまった。八路軍と対する最前線であった大屯という部落の名前は忘れられない。一つ間違えば自分達の終焉の地となった土地である。毎日の勤務は勿論敵に対する警戒防備であり、万一の場合は盾となって場内を守る任務を負わされており、昼夜24時間勤務に当てられる。夜中といえども一刻も警備をおろそかに出来ず、たった一人で山の上を巡回する。あたりは真っ暗、もし敵が隠れていて襲ってでも来たらそれまでなので、銃の引き金に指をかけいつでも打てる用意をしている。空に輝く北斗七星が内地では見られないほどの輝きで頭上にきらめいていたことは忘れられない。こんな生活が続いている間に周囲の状況はだんだん悪くなってきた。敵の姿は見えないのだがひしひしと迫ってくる気配は誰にも感じられ、緊張の度が増してきた。10月半ばより山の上の第一分哨に出るようになったが、ここは稜線一つで敵と対している最も不気味なところである。10月も末のことだった。北支のこの季節はもう夜は寒さが厳しくなる。この日、勤務についた自分たち8人は山の稜線を越え尾根伝いに数百メートル暗闇の中を侵入した。ところが突然どこからかバリバリと機銃で撃たれた。班長はあわてて横っ飛びに分哨地へ引き返す。我々もこの後を追って走りに走った。幸い敵に見つからず何とか分哨に着いたが、すぐに敵が追ってくるかもしれないので、8人とも稜線のこちら側にぴったり要撃の態勢になる。今来るかと緊張そのものも一瞬、足音は確かに聞こえてきたが、稜線の向こうでピタリと止まって動かない。向こうも不気味なのだろう。思い切って突っ込んでこない。後で考えると、よくこの時敵が突っ込んでこなかったと思う。実際来られたら、軽機一丁のこの8人の分哨は一たまりもなかったに違いない。11月3日は当時の明治節である。この日は内地も晴天の日が多いと言われているが、北支でも朝からすばらしい好天であった。この日は珍しく汁粉などがふるまわれ、午後からは城内への外出が許されるというので、皆期待に湧きたっていた。城内は演奏会など催されるのである。朝の食事の時、突然に上等兵が入ってきた。「第三分哨一人欠員補充のためだれか一人出ろ」と言われた時「ハイ、自分が行きます」と自分の意志とうらはらに真っ先に答えてしまった。どうせ黙っていても一番下級の自分に回ってくるだろうし、それなら自分から進んで行ったほうが覚えもよいだろうという考えがとっさにひらめいたようだが、いってしまってからせっかくの今日の楽しみがこれで全部フイになったかと少々残念な気がした。「よしお前行け」ということですぐに第三分哨に連れて行かれた。この分哨勤務は初めてである。場所は本部から500m位離れ、上等兵を長に6、7人、せっかくの日の勤務をぼやいていた。実際この日は良い天気で眠くなるような日和だった。昼過ぎると戦友たちが皆いそいそと城内へ出かける姿が見られる。貧乏くじを引いたなと心の中で思っていた。丁度3時頃、突然ヒュルヒュルという音がしたかと思うと本部のそばの道路上に土煙が上がった。つづいて又一つ。一体何が始まったのかととっさにはわからなかったが、「敵襲」という班長の声にびっくりして前方の山を見ると中腹辺りにパッと白煙が立つと同時にシュルシュル迫撃砲弾の音。銃声が断続的に響き、やがて場内から戦車が出てきて戦車砲を打ち始め、これは容易にならないことになったと皆緊張した。やがてあたりが暗くなってきたが、依然として銃声かまびすしく戦闘が続けられている模様。唯、敵の姿は見えない。やがて城壁の上から重機がうなり出し、5発に一発入っているという、えい光弾が尾を引いて第一分哨方面に消えていくのが美しく見えた。夜の十時頃に、まず銃声がやみ戦闘は小休止になった。しかし敵は依然として撤退した様子はなくにらみ合いの形となる。夜明け前5時頃また敵は逆襲を試みてきた。あちこちで起こる銃声。敵か味方か「つっこめ」という声がはっきり聞こえてくる。今度こそ来るかと緊張したが、今回も何という幸運かこの分哨には一兵も襲ってこず、7時頃今度は本当にすべての敵が退去、戦闘が終わった。勤務を終え、班に帰ってきてみると、班内は惨憺たるものであった。食いかけの汁粉の椀などあちこちに散乱しそのままになっている。人影も少ない。ようやく同年兵を見つけ聞きだした状況によると、我が方の戦死者13名、何だか本当のことでないような気がして呆然となる。考えてみると我々の第三分哨のみが無傷で残ったことになる。運が良かったとしか言えない。晩方より戦死者の死体の焼却が始まる。この火の明るさは生涯忘れられない記憶として残っている。この11月3日の北支大屯部落の戦闘は今大戦支那大陸最後の大規模な戦闘として内地の新聞にも載ったそうだ。この時攻撃に来た八路軍の数は数千といわれ、これを迎えた我が軍は数百足らずの人数だった。この戦闘以後周囲の状況はだんだん悪くなってきた。ゲリラ的攻撃が続き、白昼城内に追撃砲弾が撃ち込まれたこともある。

12月に入ってから我々は帰還できるのだという噂が流れてきた。希望的な噂で今まで何度も胸を躍らせ、そして結果的にはいつも落胆に終わるので、今回も又かと思っていたが、本当に重慶軍がやってきた、とにかく我々は帰れるのだ、蜜雲まで歩き、それからは鉄道も通じているので北京へ汽車で行くのだという。列車は何回も止まり牛の歩みの様なもどかしさで、このまま北京か天津へ行くのかと思ったらそうはゆかず、豊台という駅で捕虜収容所に入れられる。ここで武装解除。結局、我々が本当に帰還できることになったのは2月22日頃だったと思う。佐世保の土地を踏んだ時、一時に緊張がゆるんで収容所まで歩けなくなり思わず道端にしゃがみこんでしまった。ここの収容所で又5日、そして今度こそやっと開放された。派遣されたのは北支と呼ばれた今の中国東北部、8月15日の終戦を迎えた後でもソ連分に追われ、中国共産党率いる八路軍の攻撃を受け大変な思いをしたようです。

 

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