更新日:2026年8月1日
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昭和20年3月9日東京大空襲(渡邉 幸子)
昭和14年1月生まれの87歳の私です。
毎日毎晩空襲警報の発令があると、電球に黒い布をかけ、外に明かりをもらさないということが一晩に何度もありました。また、玄関に防空壕も作り、警報の度もぐりました。
3月9日の夜は、いつもと違いたくさんの米軍の焼夷弾により火災が発生し、浅草橋、両国、錦糸町、亀戸、小松川へと燃えひろがった。もちろん私の家も全焼し、となりの家の人は全員亡くなったと聞かされました。弟は母におんぶされ、私と祖父の4人で、火の粉を払いながら、小松川方面へと進んだ。亀戸9丁目の所の川には、衣類に火がつき、川に飛び込んだ人がたくさんおり、川は死人の山でした。また、道路にも人の遺体、馬の死骸がたくさんありました。私の家の前には精工舎という大きな時計会社があり、私達4人も行きましたが人がいっぱいで入れずウロウロ一晩中歩き回っていましたが、命助かりました。火の粉で眼が真っ赤に腫れ上がりましたが、医者にも行かず治ったのですね。朝になり丸焼けの我が家を後に、祖父の親戚がいる千葉県行徳河原に頼って歩いて行きました。食べる物、住む所もなく、行徳、船橋、祖母の田舎、栃木など、何度も住居がかわりました。納屋小屋、タタミもなく、ゴザの上、テーブルなく、りんご箱、みじめなみじめな生活でしたね。食べる物ごはんに、米はなく、あわ、ひえ、いも、大根などまぜて作ったものでした。
私は父の田舎の鹿児島にも一年程一人で行っていました。食糧のない時代、父の田舎はお百姓で、手伝いもしましたが、かわいがって育ててくれました。その父は、沖縄戦終了前の6月18日戦死、私が二歳の時戦争に行き、顔はおぼえていませんが、写真を見て、この人が私の父なんだと・・・
東京へ戻って来たのは、小学校4年生の時です。小学校は3年生までで、5、6回かわり、何を勉強していたのかわかりません。江東区大島第一小学校へ、4年生で入りました。二部制、青空教室、電車教室等で学びました。
戦争がいかに生活を壊し、物をこわし、人を殺したか、考えなければいけない。今、戦争して大変な目に遭っている人がいる。なぜ止めることができないのか、平和で明るい世の中になってほしいとつくづく思う。
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