更新日:2023年5月23日
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東京大空襲について
東京大空襲の概要
太平洋戦争末期の1944(昭和19)年6月、アメリカ軍の戦略爆撃機B29が北九州の工業地帯を初空襲しました。同年8月にマリアナ諸島を攻略したアメリカ軍は、B29の基地を建設して、日本全土を爆撃範囲としました。B29による東京初空襲は1944年11月で、江戸川区内でも初めて空襲による死者がでました。
当初は主に航空機工場などの軍需施設を目標とした精密爆撃でしたが、1945(昭和20)年3月10日、東京の下町を焦土と化す大規模な都市無差別爆撃がおこなわれ、一夜で10万人ともいわれる命が失われました。江戸川区でも、小松川・平井地区がほぼ焼失し、800人を超える方々が亡くなりました。
空襲はその後も続き、東京では8月15日までにさらに数万人が犠牲になりました。
戦災で焼けた小松川・平井地区
東京都 | 江戸川区 | |
---|---|---|
死者 | 83,793人 | 約800人 |
負傷者 | 40,918人 | 約5,800人 |
被害家屋 | 268,358戸 | 約11,000戸 |
罹災者 | 1,008,005人 | 約40,000人 |
(注)3月10日のみの被害状況
空襲体験者の証言
「死を覚悟の毎日」
九日夜半より空襲警報のサイレンが激しく鳴り、手早く電気を消し真暗な防空壕に入りました。・・・暫くすると、敵機が低空にて次から次にと焼夷弾をばんばんと音を立て、あられのように落し始めました。防空壕の前が線路でしたので線路の枕木があっと云う間に火の海となり、こわくなり荒川の陸橋下に逃げることに(現在の平井大橋)。・・・隣組の方と会う度に、今日も命がありましたね、明日はあの世かしらと死は当然と思う毎日でしたが、生ある限り逃げようと風に向かってせい一ぱい、やっと荒川土手に着きました・・・
「今日はいつもの空襲と様子が違う」
サイレンが鳴ると同時に外に出た弟の、「お姉ちゃんたいへんだ、いつもの空襲のときと様子が違う。早く防空壕に」との声で私たちは病み上がりの父、それに耳の遠い母を急がせ防空壕に入りました。壕といっても名ばかりで、小松川あたりでは掘り下げることはできませんので土盛りをしただけのことです。近くに焼夷弾がバラバラと落ちてきました。みんな我を忘れて消し止めました。ふと見上げると、空いっぱいに低くB29が爆音を響かせ飛んでいます。
「『世代を結ぶ平和の像』建立の呼びかけ人としての真の訴え」
中川に沈める人等の措置につき、警察、警防団、町会有志等協力して船にて川をさらい始めた。いかりにかかって上って来る者、次から次へとその数、尽くるところを知らず、一人一人引揚げて丁重に棺に納め堤防にならべた。然し二日目、三日目と続くと最早棺は無くなり、竹の簀子を持って来たが、それも不足して遂には菰包となり、名札をつけて毎日堤防に朝から夕まで引揚げ、夕方トラックで軍指定の埋葬地に運んで行った。
出典:『江戸川区戦災・空襲体験証言集』東京大空襲江戸川区犠牲者追悼「世代を結ぶ平和の像」をつくる会編
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