更新日:2024年5月15日
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特集 まちを守る、身近な水辺 荒川放水路~今年で通年100年~
(注)本特集掲載の一部写真・イラストは国土交通省荒川下流河川事務所から提供を受けたものです。
私たちの身近な水辺の一つである荒川。実はこの荒川が人の手でつくられた「放水路」であることをご存じですか。荒川放水路は、今年で通水100年を迎えます。これまで一度も決壊を起こさずまちを守り続けてくれました。
今回は荒川放水路の歴史や治水の取り組みなどについてご紹介します。
洪水を繰り返さないために
本区を流れる荒川放水路。「放水路」とは、川の流れをよくするために新しく人の手で開削し、直接海や他の川に放流する水路のことをいいます。つまり、私たちのそばを流れる荒川は“人工の川”です。ではなぜ、人の手で川をつくることになったのでしょうか。
荒川放水路の歴史は1910年までさかのぼります。この年、日本列島のほぼ半分にまで被害をもたらした大洪水が発生しました。本区の周辺でも、当時の荒川(現在の隅田川や新河岸川など)や綾瀬川の堤防が壊れたり、水が乗り越えたりして大きな被害が及び、江戸川区内では約3600戸が浸水、被災者は1万3千人以上にも上りました。
それ以前からたびたび洪水は起きていて、荒川改修を求める声もありましたが、この大洪水を契機に、当時の政府が治水計画を急ピッチで策定。その中に、新たな洪水を防ぐため、岩淵水門(東京都北区)付近から東京湾までの約22キロメートルを人工的に開削し水路をつくる計画がありました。これが荒川放水路をつくったゆえんです。
このように、水害からまちを守るために計画された放水路建設ですが、完成までには多くの試練が待ち受けていました。
1910年の⼤洪水の様⼦(⾜⽴区千住付近)。当時の荒川は蛇行した流れで、大雨のたびに⼤量の⽔があふれて洪⽔を引き起こす、まさに“荒ぶる川”でした
荒川が記された古地図。荒川は元々現在の隅田川でしたが、洪水を防ぐため、新たに人の手で放水路をつくりました
資料:「迅速測図原図復刻版」(財団法人日本地図センター)より作成
苦労と困難の連続
大洪水の3年後の1913年、日本人で唯一、パナマ運河の建設に携わった内務省(現在の国土交通省)の青山士(あおやまあきら)氏の指揮のもと、掘削工事が始まりました。工事は機械や船を駆使して進められましたが、初期の段階では人や馬の力を使っての作業が中心でした。この工事に関わった人は延べ310万人。掘られた土砂の量は2180万立方メートルで、東京ドーム約18杯分に相当する大規模なものとなりました。
1916年、放水路の起点となる岩淵水門(現在の赤水門)を青山氏が設計。土質が軟弱で建設は困難を極めましたが、青山氏はパナマ運河の建設で学んだ経験を生かし、川底よりさらに深い所にコンクリートの枠を多く埋めるなどして頑丈な水門を造りました。
このように完成に向け工事は進められましたが、その途中でもたびたび大雨による洪水や高潮に見舞われ、機械が流されたり護岸が崩れたりしました。また、1923年には関東大震災が発生し、堤防の陥没や亀裂ができるなど多くの被害を受けました。しかし、頑丈に造った岩淵水門はまったく被害を受けなかったため、このことは青山氏の功績として現在でも語り継がれています。
開削当初は機械が少なく、⼈⼒が頼りでした。掘った⼟はトロッコで堤防を造る場所まで運ばれました
工事の指揮をとった青山士氏。荒川放水路建設後は、信濃川の分水路も完成させました
悲願の放水路完成
そして、多くの人々の苦労と、幾多の困難を乗り越え、1924年に通水式が行われました。式典には当時の内閣総理大臣をはじめ多くの来賓が招かれていて、放水路の整備が人々の悲願であったことがうかがえます。その後、諸工事を経て1930年に荒川放水路は完成を迎え、以後100年近くにわたり、決壊することなく私たちのまちを守り続けています。
1924年完成の旧岩淵水門(赤水門)。現在は水門の役割を終え、歴史的建造物として保存されています
新たなリスクに備えあらゆる関係者が協働
大洪水をきっかけにしてつくられた荒川放水路ですが、近年、気候変動による降雨量の増大や台風の大型化など、新たな水害リスクが高まっています。
そこで、水害を防ぐ取り組みとして、「流域治水」があります。これは、上流から下流までの流域に関わる国、自治体、企業などが協働して、氾濫の可能性がある地域を対象に行っている水害対策です。氾濫を防ぐ・減らす・被害を少なくすることや、水害が起きた際もすぐに復旧・復興ができるよう対策を進めています。
例としてハード(設備)面の対策では、上・中流域でのダム・森林・遊水地などの整備、下流域での堅固な建物群・高規格堤防・高台公園などの整備が挙げられます。このうち下流域の施設の整備全体を「高台まちづくり」と呼び、浸水時の救助・避難拠点を確保するだけでなく、平常時のまちのにぎわいづくりにもつなげています。下流域にある本区も、この高台まちづくりに国や他の自治体と一丸となって取り組んでいます。
さらに水害に強く安心して暮らせるまちに
本区は、陸域の7割が満潮時の水面よりも低いゼロメートル地帯であることから、ひとたび洪水や高潮により氾濫が起きれば大きな被害が発生する土地柄です。そのため、区は長年にわたって治水事業を重点的に進めてきました。実際、1949年8月のキティ台風による高潮被害以降、70年以上にわたって川の氾濫や堤防の決壊などによる浸水(外水氾濫)は起きておらず、水害に強いまちと言っても過言ではありません。
しかしながら、近年の異常気象による新たな水害リスクにも対応していかなければなりません。区では現在、上記の高台まちづくりをはじめ、気候変動に対応するための「気候変動適応センター」の開設や、水害時でも迅速に情報収集が可能な防災用カメラの設置、下水道や堤防の強化など、国や都とも連携しながらさまざまな対策を行っています。
今後もさらに水害に強く、区民の皆さんが安心して暮らせるまちを目指して、引き続き万全な体制を整えていきます。
通水100年を記念したイベントが開催されます!
カウントダウンフェス
【日時】7月7日(日曜日)15時から
【場所】荒川ロックゲート(小松川1丁目地先)
【内容】荒川ロックゲートの通船体験、広報ブース、キッチンカー ほか
(注)詳しくはホームページをご覧ください。
アニバーサリーフェス
【日時】10月12日(土曜日)10時から
【場所】荒川知水資料館amoa(北区志茂5丁目41番1号)、岩淵水門付近
【内容】式典、水門見学ツアー、災害対策車両の展示 ほか
問い合わせ
国土交通省荒川下流河川事務所地域連携課 電話:03-3902-8745
江戸川区では水害に強い安全・安心なまちづくりを進めています
地球温暖化による気候変動に適応
都内で初めて「気候変動適応センター」を設置。気候変動の影響に関する情報収集・整理・分析を行う他、区民や事業者の皆さんへの情報提供を行っています。また、温室効果ガス排出量実質マイナスに取り組む「江戸川区カーボン・マイナス都市宣言」を表明し、2050年までに脱炭素社会の実現を目指します。
災害時でも迅速に情報収集
区独自の通信網を持つ防災用カメラを区内約200カ所に設置し、災害時においても安定した通信を確保しながらリアルタイムで情報収集・発信を行える体制をつくっていきます。
下水道を整備し、強い雨にも対応
1時間に50ミリのバケツをひっくり返したような雨が降っても対応できるよう、下水道を整備しています。また、一時的に雨水を貯めて下水道の負荷を軽減させる雨水貯留施設が区内に約100カ所あり、25メートルプール約250杯相当分の水を貯められます。
堤防や水門の耐水・耐震化で氾濫を防止
川の氾濫を防ぐため、堤防の強化・耐震化を進めています。また、洪水や高潮が発生した際にまちへの氾濫被害を防ぐ役割がある水門の耐震化なども行っています。
「高台まちづくり」を進め、浸水時の安全を確保
高規格堤防と一体のまちづくりや、堅固な建築物と歩行者デッキをつなぐなどの「高台まちづくり」を進めています。これにより、浸水時の避難場所を確保するとともに、平常時においても住みよいまち・にぎわいのあるまちをつくります。
船堀四丁目地区(イメージ)