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更新日:2026年8月15日

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特集 記憶をつなぐ~平和への祈りを次の世代へ~

CCBY 但し、画像データは除きます

 

 

太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)6月、アメリカ軍の戦略爆撃機B29が北九州の工業地帯を初めて爆撃しました。同年8月にマリアナ諸島を攻略したアメリカ軍は、B29の基地を建設して日本全土を爆撃範囲としました。B29による東京への空襲は同年11月に始まり、区内でも初めて空襲による死者が出ました。

昭和20年(1945年)3月10日、東京の下町を焦土と化す大規模な空襲が行われ、一夜で10万人ともいわれる命が失われました。

区内でも、小松川・平井地区がほぼ焼失し、800人を超える方々が亡くなりました。空襲はその後も続き、東京では8月15日までにさらに数万人が犠牲になりました。

終戦からすでに80年がたち、戦時中の記憶を持つ方も年々減っています。そこで区では、戦争の悲惨さや平和の大切さを次の世代へ伝えるため、戦時中の様子が分かる資料・証言などを募集してきました。この特集では、その資料や証言を紹介します。


昭和20年3月10日の空襲により焼けた、現在の小松川3・4丁目付近。中央の建物は東京都交通局小松川変電所。


写真:AP/アフロ
戦略爆撃機B29が日本の市街地に爆弾を投下する様子


小松川2丁目辺りから見た小松川警察署方面

戦時中の記憶

終戦から80年たっても忘れることのできない戦時中の記憶。戦争を経験した方々に当時の話を伺いました。

空襲警報が鳴るたびに「早く入れ!」と父が叫んで


本田 美津子(ほんだ みつこ)さん 102歳
大正13年生まれ(当時江東区大島在住)

真っ暗な防空壕の中で

昭和20年の頃、私は21歳で、当時は東京の大島、下町の方に住んでいました。

うちには敷地に防空壕があったんです。祖父や父が造ったのでしょう。これがないと生き残れないから。空襲警報が鳴るたびに、バッて防空壕の中に逃げ込んでいましたね。夜間よりも昼間の空襲が多かったような記憶があります。空襲警報が鳴ると、「早く入れ!」と父が叫ぶんです。怖くて必死に防空壕の中に逃げ込んでいたことは、今でもはっきりと覚えています。防空壕の中は電気がないので、昼間でも真っ暗です。あの暗闇の中でじっと身を潜めていたことは忘れられません。

兄弟の疎開と兵士に送った慰問袋

兄弟が8人いたんですが、私は長女だったのでずっと家に残っていました。でも戦争が激しくなってくると、下の兄弟は知り合いのところに疎開しました。兄弟がいなくなった寂しさを感じる余裕もないほど、毎日生きるのに必死でしたね。

いつの頃だったか、出征する兵士のために慰問袋(下記に説明)を作って送ったことがありました。受け取った兵士の方がうちに訪ねてきてくれたこともありましたね。その後、その方々の無事を日々祈っていました。

東京大空襲で家は丸焼けに

東京大空襲の時、私は家にいたんです。大島の方は火がひどくて、家は丸々焼けてしまいました。本当に「丸焼き」ですよ。家中何もかも全部焼けて…。

私の家は小名木川沿いにあったのですが、空襲で辺り一帯焼け野原になりました。目の前の小名木川には、火から逃れようと川に飛び込んだ人がたくさんいて、亡くなった方が浮いていました。今じゃ考えられないような悲惨な光景ですが、それが当たり前だったんです。恐ろしいですよ。

100歳を過ぎても忘れられない

今は江戸川区に住んでいて、デイサービスに行ったりテレビを見たりして穏やかに過ごせています。でも、ニュースで戦争のことなどを見ると、思い出します。戦争は本当に嫌ですね。子どもの頃の記憶は戦争一色で、あの空襲の怖さや食べ物がなく苦労したこと、そういった嫌な記憶は100歳を過ぎてもちゃんと残っているものですね。

疎開先から戻ると東京のまちは何もなくなっていた


野木 矩男(のぎ のりお)さん 91歳
昭和10年生まれ(当時江戸川区在住、第二松江小学校へ通学)

集団疎開で山形へ

私は小学3年生の時、山形県の鶴岡の方へ疎開しました。疎開には、親戚を頼る「縁故疎開」と、国によって場所が割り当てられる「集団疎開」の2通りがあります。私の場合は田舎に親戚もいましたが、親が「みんなと同じように苦労してきなさい」という方針だったこともあり、兄と一緒に集団疎開へ行きました。

鶴岡へ向かう夜行列車の道中のことはよく覚えています。途中の駅では、地元の皆さんが夜中にもかかわらずお茶や食べ物を用意して待っていてくれました。「学童疎開の子どもだからかわいそうに」と配給してくれた優しさに、先生方も涙していましたね。

鶴岡での生活

私は湯田川温泉の旅館にいたのですが、旅館一つに全員がいたわけではなく、近隣のいくつかの旅館に分かれて生活していました。

疎開してしばらくは、食事も3食いただくことができ、山形はお米もおいしかったのでありがたかったですね。ただ、終戦直後は一変して、食べるものはかなり悪くなりました。お米の代用食として豆や芋を食べ、それだけでは足りないので、山に行って山菜採りもしました。ワラビやゼンマイを採ってくるのですが、きれいに水で洗ってアクを取るなんてことはできませんから、真っ黒なまま食べていました。

約一年半の長い疎開生活の中で

小学3年生から4年生の半ばまで、約一年半という長い期間だったので、中には辛くて逃げ出そうとした子や、親が東京に連れて帰った子もいました。どこの学校の子かは分かりませんが、東京に戻った子が空襲で亡くなったというのを後から聞きました。疎開せず東京に残っていたらどうなっていたことか。疎開していたからこそ助かったのだと実感しましたね。

「戦争に負けた日」の記憶

終戦の日のことは、今でもはっきりと覚えています。旅館から歩いて5分ほどの大通りに、全ての旅館の児童が集められました。そこで玉音放送(昭和天皇が国民に終戦を伝えたラジオ放送)を聞いたのです。「戦争に負けたんだ」ということが分かり、先生方が下を向いて涙を流していた姿を覚えています。

東京に戻ってきたのは終戦の年の10月ごろで、汽車から東京のまちを見た時、何もない焼け野原になっていて、その衝撃は忘れられませんね。

今、子どもたちに伝えたい「幸せ」の意味

学童疎開での経験は、私にとっての「宝物」です。物を大切にすること、人に優しくすること、共同生活を送ったこと――。そうした経験のおかげで、今の自分が形成されたのだと感じています。今の世の中は食べ物に不自由なく、贅沢になりすぎているようにも見えます。戦時中、親元を離れて苦労したからこそ、今の平和な暮らしがどれほどありがたいものか、身に染みて分かります。今の子どもたちには、今の幸せを当たり前と思わず、大切に生きていってほしいですね。


疎開先である山形県鶴岡市の旅館付近にて(野木さんは写真前列の左から4番目)

区内の戦争遺跡や追悼碑・慰霊碑など

旧江戸川区役所文書庫

【場所】小松川さくら公園内(小松川3丁目6番2号)

大正13年に建てられたこの文書庫は、コンクリート造りのため東京大空襲でも焼け残り、現在も当時の姿を留めています。今年の3月に江戸川区指定有形文化財に指定されました。立ち入りはできませんが、文書庫の中を区ホームページで見ることができます。

世代を結ぶ平和の像

【場所】小松川さくら公園内(小松川3丁目6番2号)


コピーライト:江戸川文化写真連盟/えどがわ百景

東京大空襲の犠牲者を追悼し、平和の尊さを世代を超えて語り継ぐため、昭和63年に結成された「世代を結ぶ平和の像をつくる会(注)」により建てられました。

(注)現在は「世代を結ぶ平和の像の会」。

原爆犠牲者追悼碑

【場所】滝野公園内(中葛西3丁目22番1号)

広島・長崎に投下された原爆による犠牲者を追悼するため、「親江会(江戸川区原爆被害者の会)」が中心となり昭和56年に建てられました。手を合わせると広島・長崎を向くように設置された追悼碑には、「平和の図」が刻まれています。

東京大空襲慰霊碑「鎮魂」

【場所】ふれあい橋東詰(平井3丁目1番)

日頃から犠牲者への追悼の気持ちを持ち続けたいとの思いから、小松川・平井地区の方々により平成13年の第3回灯籠流しに合わせて建てられました。「犠牲者は船があれば助かったのでは」との思いから船の形をしています。

旧中川東京大空襲犠牲者慰霊灯籠流し

 

平成11年から毎年終戦の日に行われ、参加者は、白い舟灯籠に文字や絵を描き川面に浮かべ、鎮魂の祈りを捧げます。

【日時】8月15日(土曜日)18時30分から
(注)荒天中止。

【場所】ふれあい橋護岸(平井3丁目1番)

えどがわ区民ニュース別ウィンドウで開きます」(令和6年9月1日公開)では、戦争の悲惨さや当時の体験談、平和への祈りを捧げる方々の思いなどを、旧中川で毎年行われている灯籠流しの様子とともに紹介しています。

さまざまな資料から見る戦時中の様子

予科練 軍服上着

10代後半の少年が、旧日本海軍航空機の搭乗員になる訓練を積んでいた予科練で着用していた。

千人針

出征する兵士の無事を祈り、一人一針ずつ縫ったもので、兵士はお守りとして身に着けた。

防毒面

毒ガスによる空襲を想定して、家庭に配備された防毒マスク。

奉公袋

兵士が陸軍に入る際に貴重品を収めて携行した袋。袋の裏側には収容品が書かれている。

慰問袋

家族や国民が戦地の兵士を励まし慰めるため、日用品や慰問文を詰めて送った袋。

鉄兜(鉄帽)

空襲時に頭部を守るために用いられた鋼鉄製の防護帽で、一般家庭にも配備されていた。

『時局防空必携』

空襲への備えや空襲警報発令時の対応などが記されており、昭和16年に発行された。

衣料切符

戦時中から戦後にかけての物資不足により衣料は配給制となり、購入時には代金と切符が必要だった。

「平和への願いをつなぐ展示」を開催中

戦時中の様子を伝える資料や区民の皆さんにお寄せいただいた戦争体験記を展示しています。

巡回展示

日程 時間 場所
8月17日(月曜日)まで 9時~21時30分 東部図書館
8月19日(水曜日)~23日(日曜日) 9時~21時 共育プラザ葛西
8月25日(火曜日)~31日(月曜日) 9時~21時30分 篠崎文化プラザ

常設展示

【時間】9時~21時30分

【場所】江戸川区平和祈念展示室(小松川さくらホール)

区ホームページでも公開しています

戦時中の様子が分かる資料や証言などを募集しています。詳しくは区ホームページをご覧ください。

問い合わせ

相談啓発係電話:03-6638-8089

 

 


本誌掲載の事業などの実施に当たっては、江戸川区議会の審議・議決を要する場合があります。

このページに関するお問い合わせ

このページはSDGs推進部広報課が担当しています。

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