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更新日:2021年1月1日

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葛西沖 vol.7 高度経済成長期の影

CCBY 但し、画像データは除きます

 

 

葛西沖の水産業

昭和30年代、葛西沖は「三枚洲(さんまいす)」と呼ばれる約3キロにわたる干潟が広がり、冬場は葛西海苔(のり)、夏場はアサリやハマグリなどをはじめとする貝類や江戸前の魚の水揚げが行われていました。潮干狩りや海水浴が楽しめ、遠浅の海に広がる豊かな自然に恵まれた場所でした。
淡水と海水とが入り混じる汽水域が広がる葛西沖は特に海苔の養殖に適していたことから、海苔の生産額は東京内湾(観音崎と富津岬を結ぶ線より北側)で1、2を争い、品質の高さは全国に知られるほどでした。


海苔の養殖風景

黒い水が水産業の衰退を招く

戦後の目覚ましい復興につれて、江戸川区の人口は急増し、まちのにぎわいも増しました。一方で、経済が成長するにつれ、工場排水などによって東京湾は汚染され、海苔、魚や貝は採れなくなっていき、葛西沖の水産業に暗い影が落ちるようになっていきました。
急激な経済発展と引き換えに、イタイイタイ病、水俣病などの健康被害をもたらす環境汚染が全国的に問題となっていた昭和33(1958)年の4月、区内工場から旧江戸川に放流された廃水が原因で、川の水がどす黒く濁る異常事態が発生しました。この水質汚染は葛西沖まで広がり、至るところで魚が白い腹を上に向けて浮き、貝は口を開けたまま死滅していたといいます。
この問題は国会でも議論され、同年12月、水質汚濁防止に関する法制度ができました(「公共用水域の水質の保全に関する法律」、「工場排水等の規制に関する法律」制定)。
この事件は戦後の経済一辺倒の政策への警鐘となり、日本が環境について考え直す大きなきっかけともなりました。また、葛西沖の漁業者にとっては厳しい現状を改めて突きつけられ、漁業の先行きへの不安が増す出来事でした。


工場からの排水

葛西沖の埋め立て

水質が悪化し漁獲量が減少の一途をたどる中、高度経済成長に伴う東京湾岸の開発の波が葛西沖にも及んでいました。
環境悪化で追いつめられる中、葛西沖を含む東京内湾の漁業者は、東京湾岸の埋立開発計画を立てた東京都との交渉の中で、「公共の利益のため」とやむを得ず昭和37(1962)年、漁業権を放棄し転業していきました。この決断が、海から清新町や臨海町が生まれる葛西沖開発へとつながっていくのです。
このようにかつての葛西沖には、自然豊かな恵みをもたらす場所があったこと、そして、そこに多くの漁業者の営みがあったことは、私たち江戸川区民として心に刻み込みたい大事な事柄です。

ご意見・ご感想は都市計画課調整係へ 電話:03-5662-6368

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