更新日:2022年8月15日
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特集 世代を超えて語り継ぐ 戦争の語り部
被爆40年の節目に広島市から寄贈されたクスノキを見上げる山本さん(滝野公園で)
言葉にできなかった最初の朗読
1945年(昭和20年)8月、原爆の投下により、広島で約14万人、長崎で約7万人の方が犠牲となった後、日本は終戦を迎えました。今年で戦後77年。年々戦争や被爆を経験した方が減っていく中、自身の被爆体験を語ることで、生涯を通して戦争の恐ろしさや悲惨さを伝えていこうとしている方がいます。
区内在住の広島・長崎の被爆者でつくる団体「親江会」の会長である山本宏さんは、国民学校2年生(7歳)の時に広島で被爆しました。その後70年余り、家族にも自分の子どもたちにも自らの被爆体験を話すことはなく、目を背けてきましたが、5年前、親江会の方々に背中を押されて、初めて自身の体験を文章にして朗読することに。
しかし、初めての朗読ではあまりにも感情が高ぶってしまい、途中で何も言えなくなってしまった山本さん。半分ほどは代読してもらわざるを得ませんでした。
「長年、忘れよう、忘れようと努めてきた」被爆の辛い記憶。話をするために無理やり記憶を掘り起こしたことで、当時のことが夢に出てきて、夜中にうなされるようになったと言います。
今では、区内の小学校や中学校で話をすることもあるそうですが、「反応の強い子もいれば、無関心な子もいますから」と山本さん。被爆した少女の物語を児童に朗読してもらうなど工夫していても、戦争を全く知らない子どもたちに原爆の悲惨さを伝えるのはなかなか難しいと言います。
よみがえる辛い記憶と戦いながら
「普通の光景じゃないですからね、地獄っていったらこんな感じなのかと思うくらい」
想像を絶する悲惨な光景は、目の当たりにした当事者にしか分からない壮絶なものだったのでしょう。話をすればするほど、当時の記憶がよみがえってくるので、本当はあまり原爆の話はしたくないと胸の内を明かします。
「たとえ辛くても苦しくても、残された時間の中で自分が話していかないと」
抗がん剤治療中の身でありながら、さまざまな場所に出向いて自身の被爆体験を語り続けている山本さんの言葉からは、次の世代に”つなぐ”責任と覚悟が感じられました。
山本 宏(やまもと ひろし)さん
1938年(昭和13年)1月、満州生まれ。1945年春に帰国後、広島の爆心地から2.5キロの己斐町(現広島市西区)で被爆。設計技師として、広島空港や羽田空港をはじめとする空港建設に携わる。2019年4月から親江会の会長を務め、詩吟の「原爆行」で被爆体験を伝える活動を続けている。広島東洋カープで選手・監督として活躍した山本浩二氏は実弟。
江戸川区平和祈念展示室
東京大空襲の惨劇を伝える焼夷弾の残骸や焼けた硬貨をはじめ、出征する兵士へ贈ったお守りや疎開先からの手紙など、区民から寄せられた戦災に関する資料約100点を展示しています。
時間
午前9時~午後9時30分(年末年始を除く)
場所
小松川3丁目6番3号 小松川さくらホール1階
アクセス
都営新宿線「東大島駅」小松川口から徒歩10分
問い合わせ
人権啓発係 電話:03-6638-8089